その目的はゴジラではない。

f:id:tabibits:20161030235548j:plain それは今夏の出来事。

シンゴジラ4DXを観に行った。
その日僕は、ゴジラ大好きの息子には黙って家を出た。


目的はゴジラではない。


僕は石原さとみを嗅ぎに映画館へ行く。
そんな時代になったのだ。


香るんだ、それ。4DX。

噂に聞いていた4DX。
ずっと行くきっかけを探していた僕に、2016夏の石原さとみは格別の動機となった。


わからない人に説明すると「4DX」とは次のような上映システムだ。

4DX®とは、現在、映画業界で最も注目を集める、最新の<体感型(4D)>映画上映システムです。 モーションシートが、映画のシーンに完全にマッチした形で、前後&上下左右に<動き>、その衝撃を再現。 さらに、嵐等のシーンでは<水>が降り、<風>が吹きつけ、雷鳴に劇場全体が<フラッシュ>する他、映画のシーンを感情的に盛り上げる<香り>や、臨場感を演出する<煙り>など、様々なエモーショナルな特殊効果で、≪目で観るだけの映画≫から≪体全体で感じる映画≫の鑑賞へと魅力的に転換致します。

引用:新次元の4Dアトラクションシアター ユナイテッド・シネマシネプレックスhttp://www.unitedcinemas.jp/4dx/


つまり、石原さとみが登場するシーンで、4DX体感型システムから香りがでるというもの。

そうか。そうか。
残念だけど。そうか、子どもにはまだ早いか。
だから僕は、家族に黙って家を出ることにしたのだ。

悪びれる気持ちはまるで無い、むしろ心躍るとはこの事だろう。
僕の4DXは、このとき既に始まっていたのかもしれない。


映画館に着き、4DXの物々しい椅子に体を預ける。
上映時間になり場内が徐々に暗闇に堕ちる中

「来い、石原さとみ。」

心のなかで静かにそうつぶやいた。


4DXという魔物

映画は東京湾を滑走する海上保安庁のボートから始まる。
その様子を上空を飛ぶヘリコプター視点で捉えた映像がしばらく続いたところで、僕の顔面に4DXの水しぶきが掛かった。


僕のその時の感想は、「え?なぜ?」だった。

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さらにゴジラ対策を練る作戦会議室シーンでのこと。
会議室にプリンターやホワイトボードなどをぞろぞろと持ち込んで、臨時の作戦会議室を作り込む。机の上に無数の鉛筆を無造作に広げるタイミングで、僕のお尻の下にドドドっと、4DXによる振動が伝わった。

ここでも僕の感想は、「え?なぜ?」だった。

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まるで違うじゃないか。

何故そのように思ったかというと、僕の想像とまるで違う反応が返ってきたからだ。
ボートのシーンでは僕の想像するボートとの距離感は、ヘリコプター視点、つまり上空から覗くようなものだった。

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そこに4DXの水しぶきを受けた事で、ボートとの距離感はボートの後方(水しぶきを受けるであろう位置)なのかと、イメージとのギャップを感じてしまったのだ。

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同じく、会議室のシーンでは鉛筆がボロボロと机上に転がるタイミングで座席が振動すると、まるで自分がその机に腰掛けているかのような、現実味のないイメージを抱いてしまった。

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人が映画を観ながらドキドキしたり、涙を流すのは、何も本人が危機的状況にあるわけでも辛いからでも無い。
それは、映画内のストーリーに感情移入しているからである。
感情移入に必要な情報は、映像、セリフ(音)だけでなく、想像によって補完される。
シンゴジラ4DXへの違和感は、僕の想像による補完がそのインタラクションで崩され、感情移入出来なかったことによるのだろう。


デジタルが人に与える感覚

共感力というものがある。
それは人間の共同生活に必要な能力の一つだが、これも「想像による補完」によって得られるものだ。
この共感という能力は、近年のデジタルと人間との融合において重要なキーワードでもある。
VR(バーチャルリアリティ)などもっとデジタルと人間が親密になる、ストーリーの視覚が完全に自分のものになる技術において、これを無視することはできない。
なぜなら、僕が感じたような違和感、触覚など視聴覚以外の感覚によって得られる共感との差が、ストーリーへの感情移入を台無しにしてしまうからだ。
個人の共感力に任せていた従来の映画(劇場と観客の間に距離があった)と違い、劇場内に自分が投影されるということは、この共感さえも作り手が操作しなければならないのだ。


聴覚、視覚だけでなく、近い将来、触覚、嗅覚をもデジタル化されるであろう。だが、人間の共感に従順な「感覚」を作らなくてはニセモノの域をでることはない。


残念だが、石原さとみの香りはそれまでおあずけとなりそうだ。

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え:とっくん(永井家次男)

三姉妹シグルファーザーのサバイバル思考法 #childadvent

In the Park - Summer

子どもたちと公園まで歩く。20分ほど歩くと池を囲んだ広い公園にたどり着く。三姉妹を遊具で遊ばせつつ、公園内のスタバに入る。ホットコーヒーを受け取ると店の外にある席に座り、目の前の大きな池を眺める。あいにくの曇り空だが、雨が降るからだろうか、それほど寒くない。テーブルにMacBookを広げ、Advent Calendarに投稿する記事を書き始める。

三姉妹のシングルファーザー。詩人だと言い張っているが、活動としては主にプログラムを書いている。子どもたちは現在、4年生、2年生、1年生。やんちゃで元気いっぱいだとよく言われる。4年生の女の子ともなるともう少しませた感じになるのかと思っていたのだけど、まだまだガキんちょだ。常に「うんこ!うんこ!」と連呼している。シングルファーザー歴、2年。今年から一番下の子も小学校に入ったのでずいぶんと楽になったなあと感じている。

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人に会うたびに「大変ですね」と声をかけられる。それに対して「そうでもないですよ」と返す。強がりでもなんでもなく、本当にそう思っている。三姉妹のシングルファーザーの目標は、生き残ること。最低限のこの目標を達成することだけを考えていれば、それほど大変なことはない。ほんの少し思考を変えてやることで、生きることが格段に楽になる。今日はそんな考え方を伝えられたらいいなと思う。

将来は予測できない

子育てには、いやそれだけではなく人生においても、とある大前提が存在すると考えている。それは「将来は予測できない」ということ。子どもに関しては「2011年度にアメリカの小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業時に今存在していない職業につくだろう」と言われている。つまり親の世代の常識は、子どもたちの世代では常識ではないのだ。だから子どもたちに対して考えなしに常識を押し付けるべきではないと思う。

子どもたちは生まれながらにクリエイティブだ。僕らがすべきことは、子どもたちをクリエイティブにするることじゃない。子どもたちのクリエイティビティを阻害する要因を取り除くということだ。常識や思い込みで子どもたちをがんじがらめにしてしまうのはもったいない。そして、子どもたちを常識や思い込みの枠にはめようと四苦八苦しないとうことは、それだけストレスフリーな子育てができるということにもつながる。

この、将来は予測できないということと、子どもたちは生まれながらにクリエイティブであるということ。こういった前提をもとにシングルファーザーの思考法は成り立っている。

強さよりもしなやかさ

ひとり親に限らず、働く親は、時間やお金や精神力といったあらゆるリソースが常に枯渇している状態にあると言える。当然、ストレスも溜まる。そこで強くなろう、強くなれば乗り越えられるのではないかと考えがちなのだけれど、僕はそうではないと考えている。強ければ折れる。生き残ることが目標なので、折れてしまっては目標を達成できない。ひとり親に関して言えば、自分が折れてしまうと、子どもたちの世話をする人がいなくなってしまう。折れないことが重要なのだ。折れないメンタルのコツは、強くなろうとするのではなく、しなやかであろうとすること。強ければ折れる、しなやかであれば曲がるけれど折れない。何ごとも柔らかく考えるといいと思う。

それは本当にダメなのか

基本的に子どもたちがすることにはダメだと言わないようにしている。ついついダメだと言いそうになるときに少し考えてみると、意外と本当にダメであることは少ない。いたずらをしているところを目撃しても何も言わないでいると、「パパ何で怒らないの!?」と逆に驚かれることもある。ダメだと言わないことは子どもたちのクリエイティビティを阻害しないということにもつながるのだけど、まあいいかと流すということで親にストレスが溜まらないとう効果もある。いったんダメだと口にすると、それに従わないことに対してもイライラしてしまう。口に出す前に、ダメだというのは自分に刷り込まれた世間の常識なんじゃないかと疑ってみるといいと思う。子どもたちには自分で自分にブレーキをかけないように育って欲しい。

In the Park - Winter

手を抜くということ

戦略的に手を抜くということをやる。やらなくていいことは、やらない。それは完璧な家事を目指さないということだったりする。僕らの母親の世代というのはクオリティの高い主婦の世代だ。そのイメージで家事をやろうとしても、とてもできるものではない。最低限やることを決めて、それ以外は手を抜く。僕は毎日子どもたちに温かい手料理を食べさせるという以外は、多少のことは気にしないようにしている。

普段子どもと接することのない若い人は、子どもたちと全力で遊んでくれる。そしてすぐにヘトヘトになってしまう。たまにやるのならいいのだけど、これが毎日となるとなかなかしんどい。だから、まずは固め技や極め技をマスターすべきだろう。子どもの頭と肩腕を足で挟んで三角絞めをかける。本来であれば頭を押さえ込んで頸動脈を締めるのだけど、それが目的ではないので足だけで技をかける。そうすると、子どもが喜ぶ一方で、親は両手が自由になる。我が家は三姉妹なので、さらに両手にひとりずつフロントチョークをかける。本来であれば足でフックして首を締め上げるのだけど、それが目的ではないので腕だけで技をかける。そうすると、寝転がったまま楽に3人の子どもたちの身動き封じつつ、喜ばせることができる。これは具体的すぎる例なのだけど、何ごとにおいても同じように力の掛け方を工夫すると子育ての負荷を減らすことができるんじゃないだろうか。

受け入れる

子どもはコントロール対象でないということも重要だという気がする。子どもといえども他人なので、他人をコントロールするというのは難しい。コントロールできるのは自分自身だけだ。だから、受け入れるということが重要になってくる。

ドラマなんかだとシングルファーザーの娘というのは、すごくしっかり者として描かれることが多い。けれどもそれは幻想だ。「千と万」という父子家庭を題材にした、けれども気軽に読めるコミックがある。この娘の適度なわがまま具合がすごくリアリティがある気がする。小学校からのお知らせを読むと、子どもはみんな良い子だという前提で書かれているけれど、実際には意地の悪いことをしたりもする。これは子どもの頃を思い出してみると、自分もそうだったなあと感じる。つまりは良い子に育てようとする必要はまったくないということなのだけど。

子育ては結果論だと考えている。一流アスリートだって、厳しい家庭で育った選手もいればそうでない選手もいるだろう。どの子にも当てはまる育て方はなくて、どう育てるか悩みすぎて親にストレスが溜まっては逆効果だと思う。世の中の子育て論はすべて結果論なのだから気にしすぎるべきではないし、将来は予測できないから現時点で何が正解かはわからない。正解はないと知ることで、楽になることができる。

取り組み

ここでメンタル面以外についても書いてみようと思うのだけど、それほど工夫していることはない。とにかく温かい食事を食べさせたいので、料理の手際に注意しているくらいだろうか。和の鉄人、道場六三郎が「料理で一番大切なのは手際だ」と言っていたのを思い出す。料理をしつつ風呂をためたり部屋を片付けたりといったタスクを織り込んでいく。

子どもが多いと、家の中が散らかる。これをどうにかしたいと考えていた。また、子どものお小遣いについても考えていた。お小遣いという制度が腑に落ちなくて、何の価値も提供していないのに報酬をもらえるシステムというのもおかしい。そこで、部屋を片付けるとシールがもらえて、10個そろうと100円もらえるというシステムを導入した。もともと物を持たない家なので、これでわりときれいな状態を保つことができている。

子育てや介護で一番問題になるのが時間不足だと思う。時間をいかに捻出するかについては、このAdvent Calendarで他の人が書いているので、ここでは書かない。ただ、闇雲に時間を確保しようとする必要はないということだけ書いておく。エンジニアやデザイナーであれば成長しなければという強迫観念があると思うのだけど、いまでは成長は必要ないんじゃないかという気がしている。人は生きているだけでしんどいのだから、生きていれば勝手に成長している。それ以上の成長は欲求であって、ゲームをしたいとかフットサルをしたちというのと変わらない。だから必要以上に成長しなければならないというプレッシャーは捨ててしまって構わない。必要になれば自然と成長すると信じて。

f:id:hibi_myzk:20151221162112j:plain Phot by 竹内貴誉詞

起業したわけ

10月に会社を辞めてフリーランスになった。ひとり親でベンチャー企業というのはなかなか難しいところがあるのだけど、いろいろと便宜を図ってもらってすごく感謝している。地方で子育て支援に力を入れている会社なので、興味のある人のためにリンクを貼っておく。

恵まれた環境にいて、なぜ辞めたかという話になる。ひとり親だと共働きというのができないので、ひとりで2人分を稼ぐ必要がある。それから仕事と家事をどちらも100%やらかければならないので、使える時間は半分になる。つまり、半分の時間で2倍稼ぐ必要がある。そうなると会社員では無理だろうということで会社を立ち上げることに決めた。いまは個人事業なのだけど、来年には法人化する。なぜ個人ではなくて会社にするのか。

現代の会社のシステムというのは、高度経済成長期に昭和のハイクオリティな専業主婦によって支えられてきたものだ。それがいまでも、そのままのノリで存続している。それを積極的に女性を働きに出そうとする政策には無理がある。行政ではなく、それぞれの企業が変わらなければならないと思う。そもそも8時間働くという、8時間の根拠がわからない。短時間で価値を提供してそれに応じた対価を得る。家庭環境に応じた柔軟な働き方ができる。規模は小さいけれどもその事例を作れたらいいなと考えて会社という形態にすることにした。

さいごに

まとめると、ストレスを溜めるくらいなら頑張らなくていいよということになるのだろうか。頑張ることを否定はしない。けれども折れてしまっては生き残るという目標を達成できない。折れないように、しなやかに生きていけたらと思う。刷り込まれた常識や、勝手な思い込み、「しなければならない」「でなければならない」という思考は捨てるのは難しいかもしれないけれど、一瞬立ち止まって疑ってみることはできるはずだ。

小学校の懇談会で担任の先生に言われた言葉「海に行くよりも、キャンプに行くよりも、お父さんやお母さんがしあわせそうにしていると子どもたちもしあわせなんです」という言葉を拠り所に生きている。ストレスをためずに、子どもたちの前でハッピーでいること。それも親の役割のひとつなのかなという気がする。

子育てはタイヘンなしあわせです。

文字数制限がないとは言え、ブログの記事に長文は書きづらい。それでも、ずいぶんと書き散らかした記事になってしまった。伝えたいことがうまく伝えられていないもどかしさを感じる。実は今年の夏にKindle Storeで電子書籍を出版している。ここに書いたようなことを、もう少し整理して書いている。子育て中でない人でも、自由に生きるヒントを散りばめている。プライム会員なら無料で読むことができる。読んだ人の気分が少しでも楽になればいいなと思う。

スタバから遊具エリアに移動する。ベンチに腰掛け、元気に走りまわっている子どもたちをしばらく眺める。何もしてあげられていなといつも思っているのだけど、なんだかんだ子どもたちはいつも楽しそうだ。もっと気楽にやってもいいかもしれない。僕は子どもたちの前でしあわせそうにしているだろうか。三女が「喉が渇いた」と駆け寄ってくる。バッグからペットボトルを取り出す。そうだ。今日の夕飯は何にしようか。

デキるビジネスパーソンは「手ぶら」で歩く。というのを流行らせたい。

Shibuya Crossing

街中を歩くことが多くなった。すれ違う人々。誰もが当たり前のようにバッグを身につけている。あの中には何が入っているのだろう。そして「手ぶら」と「手ブラ」を使いわける日本人についての考察をはじめる。

手ぶらで移動するようになって、ずいぶんと経ったような気がする。僕がなぜ手ぶらなのか。手ぶらに至るその経緯、そしてその結果得られたもの。語り尽くした2時間半。手ぶらの真実が明らかになる。

そして手ぶらへ

数年前まではショルダーバッグにたくさんの荷物を詰め込んで歩いていた。MacBookiPad、紙の書籍、メモ帳、ケーブル類、モバイルバッテリー、将来の不安。当然、肩が凝る。なるべく左右同じくらいの負荷になるようにバッグを交互にかけていたのだけど、左右の肩だけでは足りなかった。肩があと4つくらいあればいいのに、と思っていた。

モノがないと不安だった。もしも外出先で何か必要なものが出てきたら。空き時間ができたら、それを有効に使わなければ。不安を消し去るようにモノを詰め込んだ。その度にバッグは重くなっていった。そしてバッグの中は常にごちゃごちゃとしていた。ひっくり返すとハイチュウが2つ転がり出てくる。

そんな時に出会ったのが「佐藤可士和の超整理術」という本だった。空間、情報、思考の整理術を順を追って解説している。空間の整理術の中に、モノを持ち歩かないという内容のことが書かれていた。

手ぶらの実践

バッグの中を整理するのにおすすめされていたのが、帰宅したらバッグの中身をすべて出すという方法。これだと惰性で持ち歩いているモノがなくなる。これはすごい。Tカードのデザインのようなシンプルかつ大胆な方法だと思い、さっそく実践する。

家に帰って、バッグの中を空にする。そうして翌日、出かける時にバッグに荷物を入れるのだけど、これは本当に必要なのかと問いかける。暇つぶしの本は必要だろうか。ノー。メモ帳は必要だろうか。ノー。世界に戦争は必要だろうか。もちろん、ノー。

こうして持ち物をチェックしていくと、かなりのモノがiPhoneで代用できることがわかる。暇つぶしに読書やゲームもできるし、メモも取れる。サーバーにトラブルがあっても、iPhoneからアクセスして対処できる。ケーブル類は自宅とオフィスに置いておけば、持ち歩く必要はない。別の場所に出かけている時にバッテリーが減ってきても、充電スポットはたくさんあるし、最悪コンビニで小型のバッテリーを購入すればいい。

最終的に荷物は、iPhoneと財布、鍵と薬だけになった。佐藤可士和と同じく、名刺は必要な時のみ持って行く。もはやバッグは必要ない。

iPhoneはケースに入れず裸でポケットに入れている。ケースに入れると、舐めた時の味が変わってしまう。財布はabrAsus(アブラサス)の「薄い財布」を使っている。価格はやや高いが作りがしっかりしていて、5年ほど使っていても劣化する感じはない。薄いのでポケットに入れていてもかさばらない。カードが5枚しか入らないというのも潔い。免許証、保険証、クレジットカード、キャッシュカード、最低限必要なものだけを持ち歩いている。

ポイントカードは持ち歩かない。クレジット機能付きのTカードだけだ。高額なものはアマゾンで買うかTポイントの貯まるカードで支払うので、その他のポイントカードは誤差でしかない。頑張って500円分のポイントを貯めるより、月に1度ランチをカキフライ御膳から牛丼に変更すればいい。何枚ものポイントカードを持ち歩く煩わしさから解放される。薄い財布に入りきらない小銭が出たら、レジの横の募金箱に入れればいい。身軽になる権利をお金で買っていると考えることもできる。

Zaimで家計簿をつけている。もらったレシートはiPhoneでZaimに入力してすぐに捨てる。薄い財布がレシートで膨らむことはない。本当は財布も持たずに電子マネーだけで過ごしたいのだけど、まだ現金が必要な店も多いので実現していない。

After 手ぶら

バッグを持たなくなって、肩こりが緩和された。これは物理的に肩への負担がなくなっただけでなく、持ち物が常に整理された状態なので精神的にも効いてるんじゃないかと思う。

歩く姿勢もよくなる。歩くペースも自然と速くなる。重たい荷物を持った現代人の合間をぬってスタスタと歩いていく。遠くまで歩けるようになる。以前であれば自転車に乗っていた距離でも歩くようになった。駐輪場を気にしなくていいので快適だ。

手ぶらは気分がいい。最初はモノがない不安を感じるが、それはすぐに慣れる。意外と何かが必要になるということはない。何かに備えるというのはキリがない。道端で急に実験がしたくなった時に備えるなら、ビーカーやフラスコを持ち歩かなければならない。それは実験内容をiPhoneでメモして、自宅の実験台でやるべきだと思う。

手ぶらは一度体験するとやみつきになる。実際にモノが必要ないというのも体験してみるとよくわかる。まずは帰宅してバッグを空にするというところから始めてみてはどうだろうか。

手ぶらは社会を変える

バッグを持っていないと変人扱いをされることが多い。僕の場合はバッグを持っていていも挙動不審だと言われるので、もはやバッグのせいではないと思っている。ビジネスの現場でもバッグを持っていなければ変な目で見られるということがあるらしい。けれども、手ぶらでいるとうことは、常に本質を追い求めるということだ。そして常に整理されている状態にある。モバイルへのリテラシーも高い。手ぶらこそデキるビジネスパーソンの条件だという気がする。

澤穂希スティーブ・ジョブスも2歳くらいの時は、きっと手ぶらで歩いていた。成功するためには、手ぶらでさえいればいい。あとは家でゲームをし続けていても、きっとうまくいくだろう。手ぶらはすばらしい。

ひとりの努力では社会は変わらないが、ひとりひとりの努力がなければ社会は変わらない。何かとストレスフルな現代人を解放するには手ぶらしかない。最初に椎茸を食べようとした人を他の人は止めようとしたかもしれない。けれども最初に食べた人がいたからこそ、いまでは椎茸を食べることが普通になっている。いまはまだ手ぶらでいると笑われるかもしれない。でもそれが当たり前の社会になれば、逆にバッグを持っている方が笑われるだろう。

冬はコートを着るのでポケットが増える。この冬、手ぶら生活を始めてみてはどうだろうか。大嫌いな椎茸を皿の端に避けながら、そう提案してみる。